Beyond the memory

音楽と映画と酒場にまつわる話

LE GRAND BLUE

あの当時、どんなにいい映画であっても、人気がで出たとしても、劇場(映画館)で放映する期間があった。

それは今でもそうなのだが、その後のDVDとか、ネット配信のなかった時代である。(即ち、TVでの放映権やVTRやDVDでのセールを想定して作ってない時代。映画を映画として創っていた時代。)

そう、劇場(映画館)で見逃したら、リバイバル再上映を期待するか、地方に行くかして、数年後を待って観るしかなかった。

それは、最終上映日の最終回間際だった。

わたしも、口コミでいい映画だと聞いていたのだが、なかなか観に行く機会を逃していて、駆け込み上映に間に合い、チケット売り場に居並ぶそういう映画ファンの中にいた。(女性が多かったと記憶している)

当日券、即ち、最終上映日の最終回。(くどいようだが・・・)

偶然の出来事。

「あの~・・・」

「よかったら、チケットいりませんか?」

「ちょっと、観れない事情ができたので・・・」

ぼけ~と並んでいたので、わたしに対してなのかわからなかったのだが・・・

OLっぽい人だったと思う。

詳しい事情はわからないが、

彼氏が来れなくなったのか、

お友達が来れなくなったのか、

ちょっと戸惑ったが、チケットを受け取った。

チケット代をお渡ししたのか定かではない。

多分、いらないとおっしゃたと記憶している。

ほんの数分の出来事。

最終上映日の最終回。(くどいようですが・・・)

その映画がこれです。

 

 

グラン・ブルー』(Le Grand Bleu)は、1988年に公開されたフランスとイタリアの合作映画。監督はリュック・ベッソン

フリーダイビングの世界記録に挑む2人のダイバーの友情と軋轢、そして海に生きる男を愛してしまった女性の心の葛藤を描く海洋ロマン。

10代からダイビングに親しんできたベッソン監督が、長年の夢だった“イルカに魅せられた潜水夫の物語”を、実在の天才ダイバー、ジャック・マイヨールの協力を得て映画化。撮影は1987年6月から約9ヵ月に渡り、フランス、ニューヨーク、パリなどで行われた。

フランスでは公開後、ハイティーンの若者達の絶大な支持を集め、映画館前は長蛇の列。上映前と終わりには、割れんばかりの拍手が映画館を埋めるような狂騒となった。フランス国内の観客動員数は1000万人、パリでは187週連続上映という記録を打ちたてた。彼らは「Grand Bleu Generation」と呼ばれ、社会現象にまでなった。

日本での「グラン・ブルー・ジェネラシオン」
日本では20世紀フォックスが配給を手がけ、『グレート・ブルー』として1988年8月20日東宝洋画系にて公開された。公開当時のキャッチ・コピーは「海には、多くの秘密がある。」。しかし同時期公開のヒット作の多くに興行面で苦戦してしまい、メイン上映館であった日劇プラザは2週間、新宿プラザ劇場は1週間で打ち切りとなる。

その後フランスでの盛り上がりが伝わるにつれ、口コミで話題となり、1989年4月にセルビデオが発売されると、六本木WAVEビデオ部門で1位となるなど、折からのカルト映画ブームもあり『グレート・ブルー』人気が熱気を帯びていく。

 

 

ジャック(ジャン=マルク・バール)とエンゾ(ジャン・レノ)は、ギリシャの島で幼なじみとして育つ。やがて二人は成長し、コート・ダジュールで20年ぶりに再会した際、エンゾはイタリアのシチリアで開催されるフリーダイビング大会に参加するようジャックに伝える。同じころ、アンデスで偶然ジャックと出会ったジョアンナ(ロザンナ・アークエット)も、出張を口実にニューヨークからシチリアにやって来る。

 

 

人生でそうあることではないが、今回で二回目である。

直前で声をかけられ、チケットをもらうのは。

一つは、「ブルースカーニバル」の時、

二つ目はこれ、「グランブルー」。

小さな奇跡的な出会い、小さな運はちょいちょいある。

ビックウェーブ(大きな運)は来たことないが。

そこには

音もなく

重力もなく

悲劇もない

(笑)

 

Live Under The Sky

やっと、これを書く気になった。

時を経て、

1980年代の後半。

たった一音でその場の空気、いや万博公園いや北摂いや大阪中、いや日本中、いや地球上、いや宇宙空間までもの、雰囲気を変えたミュージシャン。

マイルス・デイヴィス

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JAZZ界の帝王は言うまでもなく、その時、私はマイルスを”神”のような存在に見えた。

オープンニングから、緊張感に包まれ異様な雰囲気が辺りを漂っていた。

そして、夕景迫るその瞬間、マイルスの存在が見えた。

マウスピースに唇を当てた、しかし、吹かない。

緊張感は頂点に達した。

その瞬間、マイルスは”一音”を鳴らした。

その瞬間、

空気が変わった。

灼熱の太陽が降り注いだ日中、夕刻からはそよ風が吹いたような感じもあった、しかし、この一瞬・一音は違う。

あれだけ騒いでいたオーディエンスも鎮まり、静けさのなかの、一瞬、一音で、変えてしまったトランペッター。

それが、

帝王「マイルス・デイヴィス」だ。

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その光景は多くの居合わせたオーディエンスが証人だ。

私だけではない。

ジャズライブ・ハウスのマスターも、居合わせた友人も、全く見ず知らずの人達も、異口同音に、それを語りだす。

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言葉(文字)では言い表すことが出来ず、

30数年経って、書き起こすというかキーボードに打ち込むことを決心した。

もっと、はやく伝えることも出来たかもしれない。

多くのジャズ評論家や似非評論家達はこぞって書いている。

やはり、自分の体験を、感じたことを、ストレートに打ち明けたほうがよいと思った。

だから、30数年の熟成が必要だった。

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「たった、一音で空気を変えたトランペッター」

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私には、それしか、表現することができない。

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それが、マイルス・デイヴィスだ。

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※ライブ・アンダー・ザ・スカイ (Live Under the Sky) は、1977年(昭和52年)から1992年(平成4年)にかけて毎年夏(7月)に催されていた、日本のジャズフェスティバル。

多くのジャズミュージシャンを招聘・集めて開催された野外コンサート。東京都大田区田園調布の田園コロシアム(スタジアム、テニスコート)にて始まった。騒音問題により、会場をよみうりランドオープンシアターEAST(野外音楽堂)に移す。ジャズのライブということで、アドリブ/インプロヴィゼーションの掛け合いをファンは楽しんだ。ハービー・ハンコックのV.S.O.P.クインテットなど、ファンが「伝説」と呼ぶ演奏を残した。

また、全国各地をツアーする年もあり、札幌・仙台・富山・名古屋・大阪・福岡・香港などで開催された事もある(札幌など地方ではホールでの開催例もある)。

メインスポンサーである日本たばこ産業の方針変更により、1992年(平成4年)をもって終了となった。

正式なイベントの名称は「Select - Live Under The Sky」である。「Select」の語は当時の日本たばこ産業の製品の宣伝コピーを元にしたもの。

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ホットドッグと濁った海と犬

子供時代の話。

 

何の用事かわからず、

 

父と妹で、岡山にいた。

 

駅前のパン屋でホットドックやらを買った。

 

用事が済んで、海に行った。

 

梅雨時の濁った海だった。

 

「こんな時になんで海?」

 

子供心にそう思った。

 

海の家で、駅前で買ったホットドックを食べかけた、

 

その時だった。

 

野犬に食べかけのホットドックを持っていかれた。

 

今でも、

 

そのホットドックの味を憶えてる。

 

ケチャップが濃厚で、雨のしょっぱい味が混ざった味。

 

そして、

 

濁った波が打ち返す。

 

なんで、ここに来たんや。

 

随分と大人になって、理由が分かった。

 

父の父、すなわち、私には祖父になる人がいたが、

所謂、大阪の船場商人だったが、

何かの理由で、離婚し、私の父を疎開がてら、

 

岡山と広島の山間部にある、

親戚の家に預けたのだ。

 

父は旧制中学まで、そこで過ごすことになる。

 

そこで、お世話になったおばさんの遺産が父にまわってきたそうだ。

 

その遺産の一部の山の遺産放棄の為、

 

岡山の裁判所まで来たのだった。

 

詳しい話はそれぐらいで、

 

毎年、

 

家には、岡山地方から、

 

秋の味覚(栗やら新米やら・・・)が送られてきていたのを思い出す。

 

幼い子供心には、嬉しく食していた思い出がある。

 

それと、

 

いらなくなった本だと思うが、

 

その家のご子息が読んでいた、

 

kotobank.jp

」シリーズの本が、

 

嬉しかった。

 

夢中になって、家の二階にあがる階段で読んだ。

 

その頃の「少年探偵団」とかの影響か、

 

何故か、

 

今だに、探偵物に心惹かれてしまう。

 

何故、

 

そんなことを憶えているのだろう。

 

あの海と、

 

ホッドックと、

 

犬のせいだ。

 

 

 

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Muddy Waters - Mannish Boy (Audio)

 

 

 

 

ブルースカーニバル

何の理由もなく。ただ何となく・・・

ふいに、30年前の思い出が蘇ってきた。

 

「やつだ。」
アルバート・コリンズだ。」

 

そして、“Blues”の思い出が蘇ってきたのだ。

 

ブルースカーニバル枚方パークミラービール

 

ただただ、やるせない日々を送っていた、ある日、情報誌で「ブルースカーニバル」の文字が目にとまった。

 

「今日やんけ,ライブ?」

 

どんなライブか、誰がでるのか?(“Blues”のライブというのはわかっていたが・・・)

そもそも、あの頃は特に“Blues”ファンでもなかったし、ギター小僧でもなかった。

 

淀川をはさんだ対岸の町「枚方パーク」(今でいうところの「ヒラパー」)で行われた“ブルース・カーニバル”だ。(そこの野外音楽堂みたいなところ)

 

赤と白の縞模様の京阪バスに乗り込み、高槻から枚方まで30分ぐらい。

子供頃、親によく連れてってもらった「枚方パーク」(僕らの頃は、「ヒラパー」ではなかったが、秋には「菊人形展」にもよく行った。)

そこの、野外音楽堂みたいなところで、そのイベントはあったのだ。

 

チケットも買ってなかった僕は、チケット売り場の窓口に並んでいたところ、

前にいた見知らぬ兄ィちゃんが、

 

「ブルースやろ?チケットいらん?」

 

すわ、ダフ屋かと思ったが、

 

「ツレがこれへんようになったから、やるわ。」

 「えッ?」

「金はいらんよ。あんたブルースファンやろ?」

 

いまさら、いきあたりばったりの似非ブルースファンとも言えず。

 

「ありがとう! ほな、もうとく(もらっておく)わ!」

 

と、こころよく頂戴いたしました。
ラッキー!
当時、ライブとかコンサートは今みたいに高くなく、

3000円~5000円位やったと思う。

それでも、当時のおこづかいのことを思えばラッキーやったし、
外タレのライブやし。

 

入場して、芝生のところに寝そべって聴いていたら、
先程のチケットくれた兄ィちゃんらが来たので、
僕は会場で売られていた「ミラービール」を、

「チケットもうたんで・・・」といって、

差し入れた。
その後も、その兄ィちゃんらともつるむことなく。

舞台に上がるミュージシャン達の演奏を聴いていた。

 

前座は確か「KING SIZE」というハードコアなバンドやったと思う。

その次に「憂歌団」やった。

 

僕はあんまり旨くは感じないそのアメリカンビール「ミラー」を何杯か飲んだ。

「ちぇっ、薄いやないかぁ。」(ちょっと苦め、でも嫌いじゃなかった。)

(その頃は、アメリカンビールの「バドワイザー」が全盛で、
僕は「クアーズ」派だった。)

 

そう、ここで、

アルバート・コリンズ

聴いたんやっけ!

 

当時の出演リストがないので、正確なことはわからんけど、

多くの“Blues”ファンのブログ等にはそう書かれてある。

http://babisan.blog.eonet.jp/blues/2004/12/post-e2e5.html

http://ilovemusic.exblog.jp/5545277/

http://ameblo.jp/stoopdown39/entry-11803177343.html

 

 

 

 

尚、その当時ソウソウたるミュージシャン・“Blues”マン達が来ていた。

 

同カーニバルで来日した主なアーティストは、バディ・ガイオーティス・ラッシュアルバート・コリンズB.B.キングルーファス・トーマスクラレンス・ゲイトマウス"・ブラウン ドクター・ジョンアール・キングジョニー・アダムスアルバート・キングオーティス・クレイなど。

 

当時の東京の日比谷野外音楽堂でのリストを見ると

 

どうやら、第3回の頃から聴いていたようだ。

 

しかし、いつしか終わってしまった・・・

 

最近の“野外フェス”(ライブ+アウトドア感覚?)
もええけど・・・

 

あの時の“枚方パーク”での“ブルース・カーニバル”のゆるい感じがよかったなぁ~(オーディエンスもむちゃくちゃ多いわけでもなく、ちょうどええ感じ。)

芝生の後の柵では、

孔雀(クジャク)が羽を広げて鳴いてましたわぁ~。

 

時代は変わっていくよねぇ~。

と、

「僕とブルースと枚方パークとミラービール」


の思い出

でした。

 

ちゃうかぁ!

(笑)

 

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Spyderco

 

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書籍を整理していたら、20年程前の手紙というか礼状のメモみたいなのが出てきた。

(今更、何で私信をブログに公開するのか、1か月ぐらい考えたが・・・)

 

暫く、頭の中の記憶を辿ってみた。

差出人の名前にはおぼえがなかった。

 

しかし、紙面の内容から思い出せたことがあった。

 

私は2年ぐらいの放浪生活から帰国し、

心斎橋のアウトドアショップでアルバイトをしていた時だ。

 

そこは、高校生ぐらいから購入していたアウトドア雑誌の広告に、

アルバイトの募集を見つけて行ったところだ。

 

メーカーとかではなく、ほんとに小さなアウトドアショップだった。

 

本格的な登山用具等ではなく、アウトドア用品のグッズとかファッション、

当時まだ、エディバウアーやL.L.BEAN等の専門店、

大型アウトドア用品店が無い頃から、

EddieBauer,L.L.Bean,Patagonia,SERRADESIGNS,Foxfire,TheNothface,Colombia,

Gregory,Danner,Colman,LODGEなどを海外から輸入していた、

今でいう、「セレクトショップ」みたいなところだった。

 

その中に、ナイフとかも扱っていたのだろう。

 

アウトドア雑誌のおかげで、それらのメーカーとかは知っていたが、

ナイフとかの知識はなく、店に置いてあるナイフのパンフレットを、

あるBARのカウンターで見ていたことがあって、

常連客からは時々興味がられ、その中でも、チョットユニークな形状のこのナイフに、

注目が集まったので、数人の客(多分、10人にも満たないと思う)に、

売ってあげたのだと思う。

 

そのうちの一人だと思うが、この手紙をくれた本人には会ったことがなかった。

 

それで、

 

マキちゃんとのカウンター越しの会話で、

 

思い出したフレーズがある。

 

私は注文があったので、

店に持って行き、いつものように会話しながら、

 

「ところで、この子どんなこ?」

 

ワシャ、ワシャした子

 

という返事。

(まぁ、大阪人にありがちな、日常の会話を擬音で表現することが多いが、このマキちゃんも擬音の多い子だった。まぁ、だいたい舞踊で表現する人なので、言語はちゃんとしてなくていいのかも知れない。しかし、外大卒だから、英語には堪能だ。)

 

この「ワシャ、ワシャした子」を想像しながら、

 

ロックグラスのウィスキーを何杯も飲み干せた。

 

どんな人?

アウトドア好き?

ナイフフェチ?

 

多分、デザイン関係の学生と聞いたが、

それにしては、スパイダルコのナイフのイラストは、なんだかわからない。

(最後のアヒル?もよくわからんなぁ。でも、オモシロイ、アイコンだ。

今だったら、LINEスタンプとかで送りつけてくるんだろうか?)

 

それと、この文章と字体が笑わせる。

 

「ナラシせな。あかんなァー」って・・・

 

 

まぁ、

 

20年も経ち、

 

いろいろ空想していると、

 

この子も、結婚し、子供も持ち、

 

今頃はアウトドアに興じているのかな。

 

お花見に持って行ってるのかな?

 

マキちゃんに聞けば、知ってるだろうが、

 

「何をいまさら聞いてくるねん!」

 

とお叱りがありそうだから、やめとこ。

 

それよりも、

 

また、

 

ウイスキーグラスの中がカラだ。

 

yamahack.com

 

 

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西元町のバー

神戸に住んでいたとき、

ここなら探偵事務所に向いてるなと思うビルがあった。 

三ノ宮で散々呑んだ後、いつも、ここに立ち寄った。 
いつも、三ノ宮の高架下から元町の「モトコー」を通り、

おしゃれな若者達がそぞろ歩く通りから、

ギリシャ語からベトナム語あるいは広東語を耳にし、

おそらく船員であろう男達が家電をあさる闇市みたいな雰囲気の通りを抜けると、

そのバーはあった。 

そのビルの古びたエレベーターに乗り3Fに着くと、 
怪しげに紅い照明にてらされ、ビロードのカーテンがあった。 
まるで「ツインピークス」の場面を思い出させた店内は、 
いつも、ケンカしてるのか、イチャツイテルノカ、わからないが、 
その客以外はいなかった。 

なれなれしく話しかけてきた若い男は、妹と同級生だった。 
新開地の近くに住み、 
外国人相手の賃貸と引越屋をしていると言う。 
R&Bと時には昭和歌謡ターンテーブルに物静かに手をやるマスターは、 
持って行った「ショーグン」(ショーケンじゃない)のCDをかけてくれたが、 
こんなんもあるでと、

竹中直人」が歌うボサノヴァのレコードをかけてくれた。 

 

テーブルに置かれたハイネケンの小瓶のミドリが紅い照明に映えていた。 

この店の上に、「探偵事務所」があったらええやろなと思いつつも、 
深い酔いも醒めつつあった。 

窓の外には、水の流れるオブジェみたいなのがあったが・・・ 

幻やったんやろか・・・ 

震災後、ビルは残ったが、バーは無くなっていた。 

 

 

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Rainy Days And Mondays 

「Rainy Days And Mondays 」

 

急に東北方面に出張になった。

なんとか、前乗りしてとある街についた。

まだ時間的に余裕があると思い、付近の飲み屋街を探した。

 

地元の常連さんたちがいるような居酒屋だった。

そこで酒を呑んでいるうちに常連さんたちと打ち解け、

話にのめり込んで時を忘れるまで、

呑んでしまった。

 

ふと、宿泊するところを予約していないことに気が付き、

急いで店を出て、その近くにあるビジネスホテルを探した。

 

急に肩を叩かれた感覚があって、

後ろを振り向くと、昔付き合った彼女だった。

 

「泊まるとこさがしてんだったら、私が予約してるところ、譲ってあげるよ。」

 

と、あるホテルを指さし、そこまでついてきてくれた。

 

彼女は近くの大学病院に勤めているので、

緊急の何かがある時には、そこに泊まることがあり、

月に何回か部屋をリザーブしているようなのだ。

 

彼女はフロントに行き、何か交渉して戻ってくると、

 

ルームキーを手渡し、

 

「ここに泊まっていきなよ」

 

といって、

 

そのまま、立ち去った。

 

そして、何かを忘れたように踵を返し、

 

私にある書店のブックカバーがかかったままの文庫本を一冊手渡し、

 

また、そのまま立ち去った。

 

私は、傘を買わなきゃと思って、

 

傘の自動販売機に、

居酒屋のお釣りであった硬貨を何枚も何枚も入れつづけながら、

 

目が覚めた。

 

外では、春の大雨がこれでもかの勢いで降り続けている。

 

嗚呼、

 

「雨の日と月曜日は」

 

憂鬱だ。

 

 


Rainy days and Mondays lyrics

 

 

 

 

雨の日と月曜日は

雨の日と月曜日は

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